知識量と表現幅

着地出来ない話もたまには良いかなー。

 

例えば「好き」っていう感情を表現する術としてわたしはイラストという手段を取っているわけですが、あくまで手段というだけであって方法はそれに限ったことではない。そう思ったりもしています。

それでもイラストという手段を取っているのはそれが自分の中で最適だと認識しているからです。

 

「語彙がない。」というのはよく聞く話で、何かを語るためには語彙は必要不可欠です。とはいえ場合によっては遠巻きな言い方ほど伝わりが悪かったりもするし、その勢いとかスピード感とかそういうのを求めるときはストレートな表現が好かれたりとかそういうのもあったりですよね。

何が言いたいかっていうと言葉にせよイラストにせよ、表現に奥行きをもたせるには「語彙」のようなもの…、知識量って大事なんだろうなってことを今更ながら思ったわけです。

 

「好き」って言うために英語覚えるとか短歌読んでみるとか月がきれいって言ったりとか…。

 

イラストで例えるならどうなんだろうな、手法みたいなものがそれに該当するのかな。わたしはあいにくと手癖で描くか、画像見て描くか…しか表現幅が無いのです。きっとそこがちゃんと勉強してきた人とそうじゃない人間との違いだったりするのかもしれないですね。

 

知識量がそれなりにあっても数ある手法を要所要所で選ぶってのはセンスの問題なんだろうとも思います。表現が巧みな人はきっと適度な知識量と適当な手段を選択できる人なんだろうな。わたしもそうなりたい…なんて贅沢は言わないけど、せめて自分の心と外に出ていくものは変換効率が高い方が良いなって思います。

 

インプットって大事だし、そのインプットを知識量として蓄積していくのも大事。鯛くらい無駄なく摂取するのがこれからの目標かなあ。